『ふ』号作戦気球部隊
正式編成:昭和19年9月8日
編成完結:昭和19年9月26日

連隊長:井上茂・大佐
連隊本部:茨城県大津

編制
連隊本部=茨城県大津
通信隊
気象隊
連隊材料廠
第1大隊(3個中隊・1個段列中隊)=茨城県大津
第2大隊(2個中隊・1個段列中隊)=千葉県一宮
第3大隊(2個中隊・1個段列中隊)=福島県勿来

※1個中隊=2個小隊、1個小隊=3個発射分隊、1個発射分隊=1個発射台
※1個中隊=将校12〜13名、下士官22〜23名、兵約190名
※段列中隊=水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当

試射隊=千葉県一宮
(ラジオゾンデを装備した観測用気球を放流し、電波を受信標定して気球の経路を追跡する部隊)

標定隊
標定本部=宮城県岩沼
第1標定所=青森県古間木
第2標定所=宮城県岩沼
第3標定所=千葉県一宮
(のちに樺太にも標定所を設けた)

総員:約2千名
予算:基地整備・運用費として2億円(兵器資材費・制作費は予算外・別会計)
気球製造場所:『国際劇場』『日本劇場』『宝塚劇場』『国技館』『有楽座』など
製造数:1万発(3箇所から9,300発を放流、到達数280発、残存700発は終戦時焼却処分)
攻撃開始日:昭和19年11月3日未明(3か所から同時放流)

事故
第3大隊(福島県勿来)=昭和19年11月1日未明、暴発により死亡3名、負傷3名
第1大隊(茨城県大津)=昭和19年11月3日未明、暴発により死亡3名、負傷4〜5名

『風船爆弾放流地跡 わすれじ 平和の碑』(茨城県北茨城市大津町)

昭和19年11月から昭和20年4月の間 アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地
背後の低い丘と丘にはさまれ 現在は田んぼに復元されている幾つもの沢に 放球台や兵舎 倉庫 水素タンクなどが設置されていた

晩秋から冬 太平洋の上空8千メートルから1万2千メートルの亜成層圏に最大秒速70メートルの偏西風が吹きます
いわゆるジェット気流です
風船爆弾は50時間前後でアメリカに着きます
精密な電気装置で爆弾と焼夷弾を投下したのち 和紙とコンニャクのりで作った直径10メートルの気球部は自動的に燃焼する仕掛けでした

第2次大戦中に日本本土から1万キロメートルかなたのアメリカ合衆国へ 超長距離爆撃を実行したのはこれだけであり 世界史的にも珍しい事実として記録されるようになりました
約9千個放流し 3百個前後が到達
アメリカ側の被害は僅少でしたが 山火事を起したほか 送電線を故障させ原子爆弾製造を3日間遅らせた という出来事もあとでわかりました
オレゴン州には風船爆弾による6人の死亡者の記念碑が建っています
ワシントンの博物館には不発で落下した風船の1個が今も展示され 深い関心の的になっています

しかし戦争はむなしく はかないものです
もう二度とくり返さないように努めましょう
この地で爆発事故のため 風船爆弾攻撃の日に 3人が戦死したことも銘記すべきでしょう
永遠の歴史の片隅で人目を偲び いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です

昭和59年11月25日建之

水素ガス製造装置及び水素ガスタンク設置場所跡
(茨城県北茨城市大津町)
第2大隊(千葉県一宮)と第3大隊(福島県勿来なこそ)は水素の供給を昭和電工川崎工場に依存したが、茨城県大津の第1大隊だけは自前の水素ガス発生装置を備えていた。

陸軍登戸研究所

研究主務者 一科長・草場少将
草場大佐は温厚な人柄で部下からも慕われたが、陸軍部内では変わった経歴の持ち主だった。
大正7年(1918年)に抜群の成績で中央幼年学校を卒業。
将来は陸軍大学校に進んで陸軍エリートの道を邁進すると思われていたが、彼は理工学方面の研究に関心が強く、自らの意思で砲工学校に進んだ。
砲工学校の課程を終えると、東京帝国大学工学部に進み、昭和2年(1927年)に卒業すると、ドイツ駐在武官となった。
帰国後は東満洲で独立工兵第2連隊の連隊長を務める。
昭和17年(1942年)、登戸の第9陸軍技術研究所に着任した。

研究顧問 八木博士(アンテナ)、藤原博士(気象学)、真島博士(通信工学)、代々木博士(材料工学)

A型気球(紙製)の研究 主任・大槻少佐、伊藤技師、折井大尉、中川中尉ほか
陸軍が開発したもので無圧式とも称され、浮力が高く、多少、地上風があっても放球ができ、球皮には和紙をコンニャク糊のりで貼りあわせた原紙を使った。

B型気球(ゴム製)の研究 主任・武田少佐、西田大尉、中村大尉、藤井中尉ほか
海軍が研究していた有圧式気球。
球皮には絹羽二重にゴム引き材を使用したので、均一の皮を球体に貼ることができた。
自重が重く、上昇速度も遅くて、無風状態でないと放球できないため、実用気球はA型気球に規格化された。


ラジオゾンデの研究 高野少佐、尾形中尉ほか
陸軍気象部(ラジオゾンデ・気象の研究) 湯浅技師ほか
ラジオゾンデ高層気象観測用無線発信器
従来型のラジオゾンデA3型から電池の起電力の持続に重点を置き、数十時間、数千キロの距離で信号を発信できるA1型に転換したことで、飛躍的に通信距離が向上した。

材料面研究協力 山田大佐、伴少佐、岩本大尉ほか

協力研究機関 第5技術研究所(気球航跡の標定) 森村中佐、内藤少佐、川島少佐、孤崎中尉、星埜中尉、石川中尉ほか
       第8技術研究所(材料面の研究) 高田少佐、小日向少佐、吉田大尉ほか

第2陸軍造兵廠(火薬および焼夷弾などの研究) 深津大尉ほか

中央気象台(太平洋気流研究) 荒川秀俊技師ほか

陸軍軍医学校(経度信管研究) 内藤中佐

海軍側 足達少佐、田中少佐

民間企業 精工舎、

藤倉工業、東芝、日本火工品、国華ゴム工業、横河製作所、久保田無線、三田無線

307装置(高度維持装置)
風船爆弾は水素ガスにより太平洋を渡っていくのだが、球皮からはわずかとはいえ、水素ガスが漏れるし、日中、30℃以上になるガス温が、夜には零下40〜50℃にも下がったりする。
それとともに気球はしぼんで降下する。
そこで、バラストと呼ぶ2キロの砂袋のおもりが32個付けられ、降下を始めるとアネロイド空盒くうごうと称する高度計がそれを感知、電気回路に命じて火薬が点火され、バラストを一つ落とす仕組みになっていた。
落とすと軽くなるので、気球はまた上昇する。
こうしてジェット気流に乗り1万2千キロの太平洋を2日ないし3日で飛び、アメリカ本土上空に達したころ、32個のバラストを使い切って、高度5千メートルになると、爆弾が自動的に投下される。

標定所
ラジオゾンデA1型が発信する特殊信号から風船爆弾の航跡を追尾するため、気球連隊に標定隊が配備された。
測定方法は三点追尾方式で、青森県の古間木、宮城県の岩沼、千葉県一宮を標定所に選定。
方向探知機は安立電機製の情報用のものを使用し、これを地下の電磁遮蔽しゃへい室内に設置した。
また、U型アドコック空中線と30メートル半径の完全な地網も設置し、別にV型200メートルのロングアンテナが設備された。
傍受機として高感度のナショナルおよびRCA製受信機を使用して、地上での位置測定の監視体制に万全を期した。

 

ふ号兵器(風船爆弾)
アメリカ本土に向けて高度8千メートル以上に吹く偏西風を利用し、紙風船(無圧式)に時限信管をつけた焼夷弾(5キロ・2個)と爆弾(15キロ・1個)を懸架、アメリカ本土上空に辿り着いた頃に落下するように考案された実用兵器。

昭和17年12月に5メートル気球の試作品が完成。
試験飛行は千葉県一宮海岸で行なわれた。
その時の記録、飛行持続時間が5時間、時速100キロ、飛行距離500キロだった。
その後、改良され、実用兵器としての10メートルA型気球が完成。(昭和18年12月)
本格的に実戦使用されたのは昭和19年11月3日(明治節)だった。
翌年4月までの間に約1万個の、陸軍が開発したA型気球が北米大陸に向け放球された。

風船爆弾が到達した範囲は北はアリューシャンのアッツ島からアラスカ、カナダ、西はカリフォルニア州、東はミシガン州、南はメキシコと、ほぼ北米大陸全域に落下したが、1万個のうち、北米大陸に達した数は300球足らず、残りは飛翔中の機材の不調や水素ガスの漏れから自爆したり、撃墜されて海上に落下したりで、行方不明になっている。

風船爆弾が最初に発見されたのは、放球翌日の11月4日。
発見されたのはカリフォルニア州サンペドロの沖合100キロ地点の海上で、発見したのはコースト・ガード(沿岸警備隊)の警備艦だった。
(しかし、ジェット気流に乗ったとしても翌日に到達できる距離ではないので、11月3日以前に放球された試験気球ではないかと思われる)

 


 

 
風船爆弾の構想は、最初は黒竜江をはさんでソ連と対峙する関東軍の、ソ連領への宣伝ビラ撒き、爆撃用として思いついたものである。

太平洋の上空1万メートル内外の亜成層圏にはジェット気流と称する西風が吹いている。
気球をこの風に乗せたら、機関も燃料もなしでアメリカの上空に達するのではないかと思いついたのが登戸研究所である。

研究が完成すると、『登戸』からは第一課宣伝班長の武田照彦兵技少佐が、千葉県一宮海岸に出張。
陸軍第五技術研究所の内藤頼武中佐も、九州から北海道までの間の3ヶ所に、五号特無線機を配置、三点交法で風船の所在を追求する。
海軍からも気象部の安達左京中佐が協力して実験を行なった。
成功間違いなしの見通しがつき、陸軍省と兵器行政本部の所轄に移された。

原料の紙は東上線越生おごせ(埼玉県入間郡)附近の細川紙をはじめ、全国から和紙を集荷。
こんにゃく粉は内地だけでは足りないので、インドネシア、スマトラ、中国からまで集め、群馬県下仁田しもにたの工場で製粉した。

気球の放射地点は根室、宮古、銚子が予定された。
しかし、北海道から飛ばせたのでは北に流れ、ソ連領侵入の危険もあったため、昭和19年冬から、千葉県一宮、大津、勿来の3ヶ所から放流した。

 

『謀略戦 陸軍登戸研究所』斎藤充功著  学研M文庫 平成13年初版発行)
『歴史街道 2011年10月号』
【風船爆弾】畠山清行・著 保阪正康・編 『秘録陸軍中野学校』 新潮文庫 平成15年初版発行
 
『歴史街道 2011年10月号』